多分、死後はきっと暗い闇なんだろう。
仏教用語では「無」と表現するのかな。



死ねば、多分僕や貴方が男であったことも女で有った事も、そして思い出や何もかも全て消え去って「無」に帰るんだろう。
無に帰すのだから地獄も天国も無いわけで。



でも人間は、無になるという事実は受け入れたくない。
自分が今まで生きてきた証とか、思い出を全て「無」に帰す事を受け入れたくない。
死んだら、ただの冷たい闇に戻るだけだという事実を受け入れるほど、人間の感情はツヨク出来ていない。


だから、宗教とか出来て、死後も「自分が自分で居られる」だとかいうデマが広がった訳で。それで、みな「無」に帰すという事実から目を瞑って、「無」」に帰す事への寂しさや空しさから逃れている訳で。




・・・・今日はそんな事をふと思った。

コメント

Rin君
Rin君
2008年10月9日22:15

お久し振りです。
といって、覚えていただけていたかどうか。

仏教でいう「無」の解釈は非常に難しいらしく、
(あるいは「空」にもつながるものとして)
修行を積まれた師によっても意見が異なるようです、が。

死後の世界、というか、己の死後、ということを考えると、
たしかに、主体としての「己」は消滅してしまうかもしれませんが、
そもそもの「己」、自分が「己」だと認識しているそれ自体、
それのみで存在していることはありえず、
必ずや、時間という縦軸と、空間という横軸の中で一定の位置を与えられ、
様々なものとのつながり文脈の中で存在を与えられている、
故に、そもそも「己」なるものも「無」であり、
死による「己の消滅」も、故に「無」といえる、という解釈もあるそうです。

己が必ず「他者」とのつながり、あるいはその影響の元に存在しているのと同様に、
己の存在はまた、様々な「他者」を形成する一要因であることも避けられない。
となれば、主体としての「己」が死した後も、
「己」が存在したことによる影響なり効果なりは、「己」が死した後も残り続ける。

そこから転じて考えるならば、
「己」の生きている今という時間、この場所での活動は、
すでに「己」の死後の時間と空間を形成する過程をも包含している。
故に、生と死は相対する二つの概念ではなく、
分かちがたい表裏の関係にある同一の概念なのだ、
というようなことを、読んだことがあります。

そこでは、「死を恐れること」を恐れずに、
思う存分、死を恐れながら生き、死ねばよい、とも説かれていました。
おそらく、死が恐怖の対象でなくなった途端、
生の魅力や価値もまた失われる、ということなのではないでしょうか。

お久し振りで長々と失礼してしまいましたが、
人間にとって、死と向かい合うのは永遠の課題、ということなのでしょうね。

柳
2008年10月11日0:32

一言だけレス

おそらく、死が恐怖の対象でなくなった途端、
生の魅力や価値もまた失われる、ということなのではないでしょうか。



この言葉が今、異常に心に深く刻み込まれています
柳

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