多分、死後はきっと暗い闇なんだろう。
仏教用語では「無」と表現するのかな。
死ねば、多分僕や貴方が男であったことも女で有った事も、そして思い出や何もかも全て消え去って「無」に帰るんだろう。
無に帰すのだから地獄も天国も無いわけで。
でも人間は、無になるという事実は受け入れたくない。
自分が今まで生きてきた証とか、思い出を全て「無」に帰す事を受け入れたくない。
死んだら、ただの冷たい闇に戻るだけだという事実を受け入れるほど、人間の感情はツヨク出来ていない。
だから、宗教とか出来て、死後も「自分が自分で居られる」だとかいうデマが広がった訳で。それで、みな「無」に帰すという事実から目を瞑って、「無」」に帰す事への寂しさや空しさから逃れている訳で。
・・・・今日はそんな事をふと思った。
仏教用語では「無」と表現するのかな。
死ねば、多分僕や貴方が男であったことも女で有った事も、そして思い出や何もかも全て消え去って「無」に帰るんだろう。
無に帰すのだから地獄も天国も無いわけで。
でも人間は、無になるという事実は受け入れたくない。
自分が今まで生きてきた証とか、思い出を全て「無」に帰す事を受け入れたくない。
死んだら、ただの冷たい闇に戻るだけだという事実を受け入れるほど、人間の感情はツヨク出来ていない。
だから、宗教とか出来て、死後も「自分が自分で居られる」だとかいうデマが広がった訳で。それで、みな「無」に帰すという事実から目を瞑って、「無」」に帰す事への寂しさや空しさから逃れている訳で。
・・・・今日はそんな事をふと思った。
コメント
といって、覚えていただけていたかどうか。
仏教でいう「無」の解釈は非常に難しいらしく、
(あるいは「空」にもつながるものとして)
修行を積まれた師によっても意見が異なるようです、が。
死後の世界、というか、己の死後、ということを考えると、
たしかに、主体としての「己」は消滅してしまうかもしれませんが、
そもそもの「己」、自分が「己」だと認識しているそれ自体、
それのみで存在していることはありえず、
必ずや、時間という縦軸と、空間という横軸の中で一定の位置を与えられ、
様々なものとのつながり文脈の中で存在を与えられている、
故に、そもそも「己」なるものも「無」であり、
死による「己の消滅」も、故に「無」といえる、という解釈もあるそうです。
己が必ず「他者」とのつながり、あるいはその影響の元に存在しているのと同様に、
己の存在はまた、様々な「他者」を形成する一要因であることも避けられない。
となれば、主体としての「己」が死した後も、
「己」が存在したことによる影響なり効果なりは、「己」が死した後も残り続ける。
そこから転じて考えるならば、
「己」の生きている今という時間、この場所での活動は、
すでに「己」の死後の時間と空間を形成する過程をも包含している。
故に、生と死は相対する二つの概念ではなく、
分かちがたい表裏の関係にある同一の概念なのだ、
というようなことを、読んだことがあります。
そこでは、「死を恐れること」を恐れずに、
思う存分、死を恐れながら生き、死ねばよい、とも説かれていました。
おそらく、死が恐怖の対象でなくなった途端、
生の魅力や価値もまた失われる、ということなのではないでしょうか。
お久し振りで長々と失礼してしまいましたが、
人間にとって、死と向かい合うのは永遠の課題、ということなのでしょうね。
おそらく、死が恐怖の対象でなくなった途端、
生の魅力や価値もまた失われる、ということなのではないでしょうか。
この言葉が今、異常に心に深く刻み込まれています